太刀 備州長船住兼光
(びしゅうおさふねじゅうかねみつ)
Tachi:Bishu Osafune Kanemitsu
古刀・備前 南北朝前期 最上作 最上大業物
第三十三回重要刀剣指定品(昭和六十二年)(一九八七)
薫山先生鞘書き有り
『刀剣銘字大鑑(原本土屋押形)』所載品
片桐家伝来品
刃長:69.2(二尺二寸八分強) 反り:2.0 元幅:2.71
元重ね:0.66 先幅:1.81 先重ね:0.41 穴1
鎬造り、三つ棟高い。 表裏共に棒樋を茎途中で角止める。 鍛え、小板目に板目、杢目、流れ肌を交え、所々大模様に上品に肌立ち、地沸良く付き、地景入り、映り立ち、地鉄概ね精良。 刃文、直湾れ調で小互の目交じり、刃縁匂い勝ちに小沸付いて締まり、所々潤み、刃中小足入り、繊細な金筋、砂流し掛かる。 帽子、直調で先小丸に返る。 茎磨り上げ、先栗尻、鑢勝手下がり。 銅に金着せ二重ハバキ。 時代最上研磨。 白鞘入り。
【コメント】
長船兼光の重要刀剣太刀、同工前期作の貴重な在銘品、上品なスタイルに美しい備前鍛えの優品、古刀最上作にして最上大業物、絶対に見過ごせない名刀です。
兼光は、景光の嫡男で孫左衛門と称し、長船正系四代目として備前伝の伝統を継承しつつ、『正宗十哲』にもその名が挙がるように、相州伝を巧みに取り入れた作風、いわゆる相伝備前鍛冶の祖として、長船長義と双璧を成す名工で、重要文化財十三口、重要美術品十六口を数え、名だたる長船鍛冶の中にあって、名実共に最高峰鍛冶です。
年紀作に見る作刀期間は、鎌倉末期の元亨(一三二一~二四)から南北朝中期の貞治(一三六二~六八)頃まで、その作風は、鎌倉末期から南北朝前期の康永(一三四二~四五)頃までは、太刀、短刀共に姿尋常で、刃文は直刃調に互の目、角互の目、片落ち互の目を主体に焼き、総体的に刃が逆掛かるなど、父景光の技を踏襲した出来が多く見られます。それ以降、貞和(一三四五~五〇)、観応(一三五〇~五二)辺りからは太刀、短刀共に姿も大柄となり、それまで見られなかった湾れ主調の刃文も見られるようになります。
本作は、大変貴重な長船兼光の太刀、昭和六十二年(一九八七)、第三十三回の重要刀剣指定品です。 寸法二尺二寸八分強、腰反り深めに付いた上品な太刀姿は、前述したように、同工前期作まま見られるスタイルで、図譜には、『暦応(一三三八~四二)前後の作』とあります。
茎尻に『備州長船住兼光』と銘があり、その下に僅かに目釘穴の痕跡がありますが、これが生ぶ穴です。四尺程磨り上がっているため、元来は二尺七寸近い太刀であったことが分かります。
小板目に板目、杢目、流れ肌を交え、所々大模様に上品に肌立つ地鉄、直湾れ調で小互の目交じりの焼き刃は、刃縁匂い勝ちに小沸付いて締まり、刃中小足入り、繊細な金筋、砂流しが見られます。
板目、杢目が大模様にうねる様は、兼光特有のもので、『蝉肌』とも呼ばれ、大きな見所となっています。また前期作特有の穏やかな刃調は、父景光を髣髴とさせるものがあり、刃縁の深み、明るさ、冴えは素晴らしく、長船筆頭鍛冶としての高い技量が存分に示されています。
図譜には、『直刃を基調に小互の目心を交えた刃を焼いて出来が良く、 彼の康永頃までの作柄の特色が表れた一口である。』とあります。
本作は、『刀剣銘字大鑑』所載品、その押形には、『片桐家伝来品』との記載があります。『刀剣銘字大鑑』は、『土屋押形』を元に、本間薫山先生が中心となって、備考等を付け加えて再編集したものです。
『土屋押形』とは、江戸後期の幕臣であり刀剣家、土屋温直(はるなお)による刀剣押形集。
片桐家と言えば、片桐且元(かつもと)が有名、安土桃山時代から江戸時代初期に掛けての武将、豊臣家直属の家臣で、『賤ヶ岳の七本槍』の一人。後に大和国竜田藩初代藩主となっています。
兼光の在銘太刀は、ほぼ大磨り上げ無銘になってしまっているので、中々お目に掛かることはありません。これを逃すと、次はいつになるか皆目見当も付きません。由緒正しき伝来品、備前長船コレクションには絶対に加えて頂きたい兼光です。