刀 (太刀銘)備前介藤原宗次
(びぜんのすけふじわらのむねつぐ)
安政七年二月日(一八六〇)
Katana:Bizennosuke Fujiwarano Munetsugu
新々刀・武蔵 江戸末期
第十八回重要刀剣指定品
寒山先生鞘書き有り
刃長:78.6(二尺五寸九分強) 反り:1.9 元幅:3.15
先幅:2.26 元重ね:0.79 先重ね:0.59 穴2(内1忍)
鎬造り、鎬高め庵棟低め、中切っ先。 鍛え、小板目肌やや沈み勝ちに良く詰み、地沸微塵に厚く付き、細かな地景繁く入り、地鉄精良。 刃文、互の目乱れ主体で、小互の目、丁子心の刃を交え、刃縁匂い勝ちに小沸付いて明るく締まり、刃中柔らかな小足頻りに入る。 帽子、乱れ込んで焼き深く、先小丸に返る。 茎生ぶ、先入山形、鑢化粧筋違い。 銅に金着せ二重ハバキ。 時代最上研磨。 白鞘入り。
【コメント】
備前介固山宗次の重要刀剣、雄壮な長尺刀、典型的な宗次丁子、日本の歴史の大きな転換期に生まれた地刃冴え渡る名品です。
宗次は固山宗兵衛と言い、享和三年、陸奥国白河(現福島県白河市)に生まれ、水心子正秀門下であった加藤綱英に鍛刀を学んだと伝わりますが、宗次の作風から考えると、濤瀾刃を得意とした綱秀より、その弟で丁子刃を得意とした長運斎綱俊の影響を強く受けていると考えられています。
初めは白河藩松平家の抱え工として活躍、文政六年、主家が伊勢桑名藩へ国替えされると、それに伴い桑名藩工となりましたが、大半は江戸麻布永坂、飯倉、四谷左門町にて鍛刀しています。弘化二年に『備前介』受領、正確な没年は不明ですが、作品は文政後半から明治四年頃まで残っています。
作風は一貫して備前伝、詰んだ地鉄に匂い深い華やかな丁子刃の美しさは新々刀随一で、『宗次丁子』と呼称されます。また大業物作者としても名高く、試し斬り名人、七代目山田浅右衛門吉利(山田五三郎)、尾張犬山藩士で試斬家でもあった伊賀兎毛(伊賀四郎左衛門乗重)らに指導を受け、斬れ味鋭い刀を探求しました。
本作は昭和四十四年(一九六九)、第十八回の重要刀剣指定品、安政七年二月、同工五十八歳の作です。
寸法二尺五寸九分強、切っ先僅かに延び心、身幅重ねガシッとして、地刃は現代刀の如く健全です。
小板目詰んだ精良な地鉄は、地沸が微塵に厚く付き、細かな地景が良く働いており、互の目乱れ主体で、小互の目、丁子心の刃を交えた刃文は、刃縁匂い勝ちに小沸付いて明るく締まり、刃中柔らかな小足頻りに入るなど、一見して固山と分かる典型的な作域を示しています。
図譜には、『この刀も同工の代表作の一口であり、殊に(ことに=特に)地刃が冴えている。』とあり、寒山先生鞘書きにも、『備前伝傑出の一振り也。』とあるように、新々刀重要に欠点なし!
また安政七年二月と言えば、翌三月三日には、『桜田門外の変』にて、大老井伊直弼が暗殺されています。
それまで井伊が、絶対的な権力を握ることで推し進められてきた幕府絶対主義、朝廷の政治不介入等の専制的な政策路線は、自身の死によって決定的に破綻、そればかりか、御三家の一つである水戸徳川家と、譜代大名筆頭の井伊家の対立によって、長きに渡って維持してきた幕府の権威も大きく失墜、以降尊王攘夷運動が激化し、ここから僅か七年後の慶応三年十月十四日、第十五代将軍徳川慶喜による大政奉還、同年の江戸開城まで、急転直下の勢いで明治維新が成し遂げられるのです。その直接的ではっきりした起点が、この『桜田門外の変』であったことは間違いありません。
そんな日本の歴史の大きな分岐点を目前に作られたこの一振り、激動の幕末史が垣間見える固山宗次の会心作です。