鎬造り、鎬高め庵棟低い、中切っ先やや詰まる。 鍛え、小板目肌総体的に良く詰み、所々板目を交えて上品に肌立ち、地色明るく、地沸強く、一部湯走り掛かり、地景が良く働き、地鉄良好。 刃文、焼き幅広い湾れ調に互の目を交え、刃縁良く沸付いて匂い一際深く明るく冴え、刃中互の目足繁く入り、所々太い沸筋入る。 帽子、直調で先小丸風に深く返る。 茎生ぶ、先僅かに刃上がりの栗尻、鑢勝手下がり。 銅に金着せ二重ハバキ。 時代最上研磨。 白鞘入り。
【コメント】
新刀最上作にして最上大業物、長曽祢乕徹の重要刀剣、同工大成期である寛文十年紀入りの典型作、『乕徹大鑑』並びに『鑑刀日々抄』所載品です。
長曽祢虎徹と言えば、日本刀に余り興味のない方でさえ、一度は聞いたことのある名前、その知名度からすれば、五郎入道正宗、妖刀村正らと並ぶ有名人です。江戸前期の鍛冶でありながら、重要文化財五口、重要美術品十口を数える名工です。
越前の生まれで、三之丞と称し、元来は甲冑師でしたが、『長曽祢興里入道乕徹 本国越前住人至半百居住武州之江戸・・』と刻された作が残されているように、『至半百=五十歳』を過ぎた明暦二年(一六五六)頃には江戸へ出て、刀鍛冶へ転向したと伝わります。
作風は、前期は瓢箪刃と称される大小連なった互の目の出入りが目立つ刃文、後期は出入りが少ない頭の丸い互の目が連なる刃文、いわゆる数珠刃が主体となり、特に後期は大坂新刀のように華美ではなく、武用に徹した質実たる作風となります。純然たる直刃はほとんど見られず、多少なりとも湾れ心、又は小互の目を交えて足の入るものが多く見られ、稀に相州伝の烈しい作もあります。その師に関しては、諸説あるものの、和泉守兼重、上総介兼重が最有力とされ、特に数珠刃に関しては、上総介兼重が得意とした、互の目の連れた刃文に触発されたものと考えて間違いないでしょう。
年紀作に見る活躍期は、明暦二年から延宝五年(一六七七年)、翌六年に没したと云います。
虎徹の銘振りは、大別すると、万治三、四年(一六六〇~六一年)頃から見られる『長曽祢虎徹入道興里』の『虎』の文字の最終画を上部に跳ね上げる『ハネ虎』銘と、寛文四年(一六六四年)八月から見られる『長曽祢興里入道乕徹』の『虎』の文字が『乕』になる『ハコ虎』銘に分けられます。
言わずと知れた最上大業物鍛冶、主に山野加右衛門尉永久による金象嵌截断銘の入った作をまま見受けます。
稀に見られる彫り物は、越前喜内風を踏襲、真の倶利伽羅、剣掴み龍、大黒天、二王、不動明王などの濃厚なものから、簡素なものまであります。
本作は昭和五十六年、第二十八回の重要刀剣指定品、いわゆる『ハコ虎』銘、寸法一尺七寸二分弱、反り浅めに付いた典型的な寛文新刀姿、身幅、重ねガシッとした勇壮な一振りで、『寛文十年九月』の年紀は大変貴重、同工円熟期、大成期とも言うべき最良の時期に当たります。
小板目肌が総体的に良く詰んだ地鉄は、所々板目を交えて上品に肌立ち、地色明るく、地沸強く、一部湯走り掛かり、地景が良く働いています。
焼き幅広い湾れ調に互の目を交えた刃文は、刃縁良く沸付き、匂い一際深く明るく冴え、刃中互の目足繁く入り、所々太い金筋が掛かっています。
重要図譜には、『この脇差しは、寛文十年という同工大成期の作、姿が豪壮で、地刃の沸は常よりも一段と強く覇気があり、刃縁も明るく冴えた同作中出色の出来である。』とあります。
また昭和五十三年、薫山先生の鞘書きがあることからも分かるように、『鑑刀日々抄』所載品、その中で『これ程地沸の強い作は希有である。』とあるように、沸の妙味が存分に示されています。
更に『乕徹大鑑』にも所載で、『年紀があり、乕徹研究の基準となるものであり、地刃の出来も見事である。』としています。
ゆったりとした静の刃形でありながら、その刃の明るさ、沸の美しさ、匂いの深みによって見る者を納得させる素晴らしい出来映えであり、力感溢れる刀姿で保存状態も良好、しっかりとした重量感があります。本作を見る限り、この時点で同工の技量は極みに達した感があります。
今や空前絶後の刀剣ブーム、乕徹の名を知らない者は皆無と言っても過言ではありません。しかしながら乕徹と言えども、新刀重要は狭き門、更に本作が脇差しであることを踏まえると、その審査基準はより厳しいものになります。その中で合格した乕徹ですので、その状態等の良さはご理解頂けるかと思います。
重要の乕徹は中々チャンスがない上に、これだけの名著の所載品であることは何ものにも代え難い勲章です。
誰しも一度は手にしたい乕徹、これが数々の武人、愛刀家を魅了し続ける長曽祢乕徹入道興里の重要刀剣です。