短刀 (葵崩し紋)烈公(無銘)
(れっこう)
Tanto:Rekkou(Mumei)
新々刀・常陸 江戸末期
特別保存刀剣鑑定書付き
刃長:27.5(九寸一分弱) 反り:僅か 元幅:2.90 元重ね:0.65 穴1
平造り、庵棟低め。 鍛え、大杢目、大板目が渦巻き状、刃寄り、棟寄りには波状にうねる肌が判然と現れ、肌目に沿って地景が繁く入り、地沸厚く付き、地鉄良好。 刃文、刃文は細直刃調で沸匂い厚く付き、刃中葉、小足繁く入り、金筋掛かり、匂い口潤むように明るい。 帽子、直調で先尖り気味に掃き掛け返る。 茎生ぶ、先栗尻、鑢切り。 白鞘共木ハバキ。 時代研磨。 白鞘入り。
【コメント】
水戸烈公こと、常陸国水戸藩九代藩主徳川斉昭による慰み打ち短刀、地景肌うねる八雲鍛え、茎に刻まれた葵崩し紋、これ正に大珍品也。
常陸国水戸藩九代藩主、徳川斉昭は、寛政十二年、七代治紀(はるとし)の三男として、水戸藩江戸小石川藩邸で生まれました。烈公の別号でも呼ばれます。
これは諡(おくりな)、あるいは諡号(しごう)と言い、古来より中国の皇帝、高官など、貴人の死後に授けられていた生前の評価に基づく贈り名のことです。
水戸藩ではこれに倣って歴代藩主それぞれに贈り名があり、烈公以外では、二代藩主、水戸黄門様こと徳川光圀の『義公』などが有名です。
斉昭は文政十二年、三十歳で家督を相続すると、正に後の贈り名に相応しい荒々しい気性で、水戸の藩政改革を推し進め、激動の幕末期の荒波を乗り越えた人物でしたが、明治維新の夜明けを待たずして、万延元年、六十一歳没。第十五代将軍、徳川慶喜の実父としても有名です。
また刀剣製作に大きな興味を示し、自ら鍛刀も行い、自作刀を将軍家へ献上すると共に諸大名にも分け与えました。その相手鍛冶を務めたのが直江助共、助共の父が助政です。新々刀期の水戸鍛冶の棟梁的立場を継承した直江家に伝わる資料等によると、斉昭は天保五~十四年頃を中心に鍛刀、前述のように、天保十二年には、自作刀を十二代将軍徳川家慶に献上しています。そして何よりも烈公が助共相手に創始した、雲が沸き立つような大模様の地文が現れる鍛錬法は、『烈公の八雲鍛え』と呼称され大変珍重されます。
この八雲鍛えに付いて、佐藤寒山先生は、『大板目が肌立ち、肌目の間に大きく黒々とした地景を現すものであるが、単なる肌物とは異なり、上品にゆったりと湾れるように現れ、しかもそれが良く沸付いて光り輝き、刃縁に絡んで焼き刃に変化を持たせるのが見所である。』と述べています。
その他烈公の作刀に付いて、造り込みは刀が最も多く、極稀に脇差し、短刀、薙刀があります。焼き刃は湾れ互の目、細直刃、大湾れ、互の目丁子主体で、帽子は先が小丸で掃き掛けて僅かに返るもの、乱れ込んで沸崩れとなるもの、返り長く焼き下げて棟焼き掛かるものなどがあります。茎先は栗尻、若しくは刃上がり栗尻、鑢目は切りとなります。
特筆すべきは、第一目釘穴の上中央に十八葉の変わり菊花紋を彫ることです。 水戸では古来より『葵崩し紋』と呼び、一般的には時計のように見えるため、『時計紋』とも呼ばれます。しかしながら、幕末以降、この紋の入った贋作が多数出回っており、正真確実な作は滅多にお目に掛かりません。
本作は遂に出ました水戸烈公正真作、しかも極めて希少な短刀の優品です。
寸法九寸一分弱、身幅、重ねしっかりとした平地中央には大杢目、大板目が渦巻き状、刃寄り、棟寄りには波状にうねる肌が判然と現れており、その肌目に沿って黒く煌めくような地景が入るなど、その真骨頂である八雲鍛えが存分に示されています。地景部分は光りにかざすとキラキラします。
刃文は沸出来の細直刃調、刃寄りに流れる波状の地景が刃縁、刃中に作用して、ほつれ、目映い輝きを放つ金筋となって現れており、帽子の先は尖り風に強く掃き掛け、棟にも焼きが断続的に入っています。
これは誰が見ても八雲鍛えと分かる同工典型作、しかも短刀の正真現存作は初めて見ました。勿論本誌初掲載、地刃も健全、今年鑑定が付いたばかりの激生ぶ品、令和元年五月の年月日になっています。
水戸刀コレクターならずとも垂涎の逸品、収集価値もすこぶる高い令和の大珍品、もう次はないかもしれません。絶対に押さえて下さい。