刀 山城大掾藤原国包(初代)
(やましろだいじょうふじわらのくにかね)
Katana:Yamashirodaijo Fujiwarano Kunikane
新刀・陸奥 江戸初期
最上作 最上大業物
特別保存刀剣鑑定書付き
薫山先生鞘書き有り
『鑑刀日々抄』所載品
刃長:75.9(二尺五寸強) 反り:1.6 元幅:3.23 先幅:2.20 元重ね:0.72 先重ね:0.50 穴1
鎬造り、鎬高め庵棟低い、中切っ先。 鍛え、柾肌が波状に上品に流れる地鉄は、地色明るく、地沸を微塵に厚く敷き、細かな地景が良く働き、一部太い地景が波状に走り、地鉄概ね精良。 刃文、やや腰開きの互の目乱れに湾れを交えた焼き刃は、刃縁の沸匂い一際深く、刃中繊細な金筋、砂流し掛かり、匂い口潤むように明るい。 帽子、直調で沸匂い深く、先掃き掛け長く返る。 茎生ぶ、先栗尻、鑢大筋違い。 銅に金着せ二重ハバキ。 時代研磨。 白鞘入り。
【コメント】
最上作にして最上大業物、初代仙台国包の長尺刀、伝統の保昌柾目鍛えに乱れ刃を焼いた貴重品、『鑑刀日々抄』所載の自身作です。
初代仙台国包は、文禄元年(一五九二年)、奥州宮城郡国分若林(現仙台市)の生まれで、本郷源蔵と言い、後に吉之允と名乗り、大和保昌五郎の末流と伝えられます。後に伊達政宗の抱え鍛冶となり、慶長十九年(一六一四年)、二十三歳の頃、主命により上洛して越中守正俊に学んだと云います。寛永三年(一六二六年)、三十五歳の頃に『山城大掾』を受領、同十三年、四十五歳の頃、政宗が没すると剃髪し、入道して『仁沢用恵』と号しました。正保二年(一六四五年)、五十四歳の頃に隠居して家督を嫡子吉右衛門に譲りましたが鍛刀は続け、寛文四年(一六六四年)、七十三歳で没。国包の名跡は、幕末まで十三代に渡ります。
作風は、一貫して大和保昌伝、新刀以降の柾目鍛えと言えば、仙台国包と言われるぐらい美しい柾目肌を鍛えます。焼き刃は直調、湾れ調で刃縁良く沸付き、打ちのけ、ほつれ、砂流し掛かる出来で、帽子は基本焼き詰めとなります。特に初二代は、刃区から水影立つ手癖もまま見られます。
銘振りは、『山城大掾藤原国包』、『奥州仙台住山城大掾藤原国包』、『用恵国包』、『仁沢用恵国包』、『山城大掾藤原用恵国包』などと切り、年紀作は僅少です。
本作は寸法二尺五寸強、伸びやかで雄壮な長尺刀、茎生ぶで穴1つ、地刃健全で手持ちがズシッときます。年紀はありませんが、銘振り、刀姿からして後期晩年作と鑑せられます。
綺麗な柾肌が波状に上品に流れる地鉄は、地色明るく、地沸を微塵に厚く敷き、細かな地景に交じって一部太い地景がうねるように走っており、刃文は互の目乱れをやや腰開きに焼き、刃縁の沸匂い一際深く、刃中繊細な金筋、砂流し掛かり、匂い口潤むように明るく出来を示しています。
これ位長尺で立派な初代の作は中々お目に掛かりません。薫山先生の『鑑刀日々抄』所載品で、鞘書きにも『乱刃珍也。』とあります。
何処にも出ていない激生ぶ品、特別保存鑑定が付いて間もなく、古い登録証は昭和二十六年三月の福岡登録です。
独眼竜政宗の抱え工、初代国包の乱れ刃の代表作と成り得る逸品です。