刀 筑州柳川住鬼塚吉国
(ちくしゅうやながわじゅうおにづかよしくに)
Katana:Chikusyu Yanagawaju Onizuka Yoshikuni
新刀・筑後 江戸初期
第四十八回重要刀剣指定品
探山先生鞘書き有り
刃長:76.0(二尺五寸一分弱) 反り:1.6 元幅:3.26 先幅:2.29 元重ね:0.78 先重ね:0.53 穴1
鎬造り、鎬高め庵棟尋常、中切っ先やや延びる。 鍛え、地沸を微塵に厚く敷いた板目肌は、鉄色明るく良く詰んで、細かく上品に肌立ち、随所に流れ肌、大模様の肌合い、うねるような地景を交えて、地鉄概ね精良。 刃文、湾れ乱れ調の刃文は、刃縁にほつれ、喰い違い刃、沸匂いが厚く付き、刃中葉、小足が間断なく入り、太い金筋状の沸付いて、匂い口明るく冴える。 帽子、直調で大丸風となり、先一文字風に返る。 茎生ぶ、先極浅い栗尻、鑢勝手下り。 銅に金着せ二重ハバキ。 時代最上研磨。 白鞘入り。
【コメント】
鬼塚吉国の重要刀剣、長尺で迫力みなぎる会心の一振り、紛れもない同工最高傑作、素晴らしい新刀重要です。
鬼塚吉国は、天正二年(一五七四年)、陸奥国棚倉、現在の福島県東白川郡棚倉町(たなぐらまち)に生まれ、初めは地元で鍛刀しました。その頃この棚倉藩を治めていたのは、関ヶ原の戦いの後に国替えされていた立花宗茂でしたが、大阪夏の陣の功績により、元和六年、旧領筑後国柳川藩主として返り咲くことを許されました。その際に、地元では業物鍛冶として有名だった吉国は、立花家家老、由布壱岐守惟与にその鍛刀技術を買われ、柳川に移り住み鍛刀しました。吉国三十代後半の頃とされています。
寛永十四年(一六三七年)、『島原の乱』が勃発、九州全藩がその鎮静のために参戦するという大規模な内乱となります。吉国は柳川藩士、久留米藩士の求めに応じて、数多く作刀したと伝えられます。この内乱に於いて、吉国刀が凄まじい斬れ味を誇ることが実証された結果、『柳川に鬼塚在り』とその名を天下に轟かせました。
年紀作はほとんど見られませんが、『寛永十七年八月』年紀の作が僅かに残されており、活躍期は寛永から慶安頃としています。
肥前忠吉に近い直刃調の作風を得意とし、銘は『鬼塚吉国』、『筑州柳川住鬼塚吉国』などと切ります。
本作は寸法二尺五寸一分弱、切っ先がグッと延び心で、身幅重ね共にしっかりとした強靱な造り込みは、江戸初期に近い力強い姿を示しており、手持ちのズシンとくる重量感からも、地刃の健やかさが伝わってきます。年紀はありませんが、探山先生の鞘書きにも書いて頂いたように、寛永、正保頃の作になります。
地沸を微塵に厚く敷いた板目肌は、鉄色明るく良く詰んで、細かく上品に肌立ち、随所に流れ肌、大模様の肌合いを交えて、うねるような地景が縦横無尽に走っています。湾れ乱れ調の刃文は、刃縁にほつれ、喰い違い刃、沸匂いが厚く付き、刃中葉、小足が間断なく入り、太い金筋状の沸も見られます。通常見る同工の作で、これ程地刃、匂い口の明るく冴えたものは見たことがありません。
重要図譜にも、『肥前刀より匂い深く、沸が良く付き、匂い口の明るい出来を示した同作中の優品で、姿に迫力があり、しかも健体であることも好ましい。』とあります。これ程力強い姿でありながら、地刃の出来は古作大和物を見るかのような古調さを示しており、研ぎも素晴らしいものがあります。
これまで同工の重要指定品は四振りのみですが、その中でも地刃の出来、冴え、健全さ、迫力、風格、重量感等々に於いて、本作が最上であると鑑せられます。スッと鞘から抜いた際の雰囲気が違います。『島原の乱』では、あの天草四郎も吉国刀の斬れ味と破壊力に驚愕したことでしょう。
毎年狭き門となる新刀重要ですが、その厳しい審査を見事合格した、鬼塚吉国壮年期の傑作です。