刀 (太刀銘)荘司筑前大掾大慶藤直胤(花押)
(しょうじちくぜんだいじょうたいけいふじなおたね)
文政五年仲春(一八二二)
Katana:Shoju Chikuzendaijo Taikei Fuji Naotane
新々刀・武蔵 江戸末期 最上作 拵え付き特別保存刀剣鑑定書付き
刃長:71.6(二尺三寸六分強) 反り:1.8 元幅:2.95
先幅:1.92 元重ね:0.74 先重ね:0.52 穴1
鎬造り、鎬高め庵棟低め、中切っ先。 佩表は変わり棒樋に添え樋を丸留めにし、 腰元に爪附き素剣、佩裏は棒樋に添え樋を角留めにし、腰元櫃内に真の倶利伽羅を浮き彫りにする。 鍛え、小板目に板目を交えて細かに肌立ち、地沸良く付き、地景入り、細かな飛び焼き掛かり、地鉄良好。 刃文、互の目乱れを主体に、小互の目、丁子、尖り風の刃を交え、刃縁匂い勝ちに小沸付き、刃中小足、葉入る。 帽子、乱れ込んで、先小丸に返る。 茎生ぶ、先栗尻、鑢化粧大筋違い。 銅に金着せハバキ。 時代研磨。 白鞘入り。
打ち刀拵え(幕末期 全長97.2 柄長22 鞘 茶の呂塗 こじり、栗型、鯉口は黒塗り 下げ緒、上亀甲 柄 鮫に鉄紺柄巻き 縁頭、赤銅魚子地鋤下彫金象嵌、雲龍図 目貫、赤銅地容彫金色絵、桐紋三双図 鍔 赤銅魚子地木瓜形猪目透、据文金象嵌、桐紋散図 金覆輪、桐唐草模様覆輪耳)付き。
【コメント】
直胤は、荘司箕兵衛と言い、安永七年、出羽国山形に生まれ、『大慶』と号しました。寛政十年頃、同郷の水心子正秀を頼って江戸へ出て門下に入り、一頃は日本橋浜町秋元家下屋敷内の正秀宅に身を寄せています。文化初年頃に独立すると、師と同じく、秋元家に仕え、日本橋堀江町、芝白銀町、下谷御徒町などに住しました。文政四年には『筑前大掾』、嘉永元年には『美濃介』へと転じ、師の提唱した『復古造法論』を最も良く実践し、師同様に多くの門人を輩出しました。 年紀作に見る活躍期は、寛政末年ころから安政三年頃まで、翌同四年、七十九歳にて没、師正秀、源清麿と共に、『江戸三作』と呼ばれました。
作風は、五ヶ伝全てを巧みにこなし、山城来、大和保昌、備前景光、相州正宗、相伝備前長義、美濃志津写しなどの傑作が残されています。
銘振りは、初期は、『大慶直胤』と太鏨の草書風に切り、以降は、『大慶荘司直胤』、『出羽国住人大慶荘司直胤』、『荘司筑前大掾大慶直胤』など、細鏨の楷書で花押入り、天保頃からは、『造大慶直胤』、『荘司美濃兵衛藤原直胤』、『荘司美濃介藤直胤』など、太鏨の楷書で花押が入ります。
本作は、文政五年仲春(一八二二)、同工四十五歳の頃、得意とした備前伝の典型作で、巧みな生ぶ彫りのある優品です。
寸法二尺三寸六分、腰反りやや深めに付いた美しい太刀姿を示しており、地刃も至って健やかです。 互の目乱れを主体の刃文は、小互の目、丁子、尖り風の刃を交え、匂い深く明るく冴えるなど、同工備前伝の真骨頂とも言える出来映えを示しています。
表裏の彫り物は、添え銘はありませんが、直胤の作にまま見られる意匠で、真の倶利伽羅などの精巧な彫り口からして、弟子の本庄義胤によるものと思われます。
因みに、昭和四十五年(一九七〇)、第十九回の重要刀剣指定品に、本作と出来、銘振り、彫りが同一の作があります。
昭和二十六年の古い登録証は、岡山県登録、幕末期の大変立派な外装も付属した大変魅力的な直胤です。