短刀 栗原筑前守平信秀
(慶応元年作)
(くりはらちくぜんのかみたいらののぶひで)
Tanto:Kurihara Chikuzennokami Tairano Nobuhide
新々刀・武蔵 江戸最末期 拵え付き
特別保存刀剣鑑定書付き
『刀剣図録(藤代義雄著)』所載品 専用木箱入り
刃長:19.1(六寸三分) 反り:なし 元幅:2.20 元重ね:0.55 穴1
片切り刃造り、庵棟低め。 鍛え、板目に杢目を交えて肌立ち、地沸厚く付き、細かな地景繁く入り、地鉄良好。 刃文、互の目乱れを主体とし、やや角張った刃、小互の目を交え、刃縁良く沸付いて匂い深く明るく冴え、刃中葉、互の目足繁く入り、金筋、砂流し掛かる。 帽子、湾れ込んで沸付き、先掃き掛け長く返る。 茎生ぶ、先栗尻、鑢筋違い。 銅に金着せハバキ。 時代研磨。 白鞘入り。 専用木箱入り。
合口拵え(全長30 江戸後期 鞘柄共に黒に螺鈿散らしに蒔絵 月に鶴の図)付き。
【コメント】
栗原信秀は、文化十二年、現在の新潟市南区月潟付近に生まれ、文政十二年に上洛して鏡師として活躍した後、嘉永三年に江戸へ出て二歳年上の清麿門に入りました。嘉永五年には独立、嘉永六年八月から七年に掛けて相模国浦賀、元治元年八月から慶応三年正月までは大坂今宮でも鍛刀しています。 年紀作に見る活躍期は、嘉永五年五月から明治十年十一月まで、明治十三年、東京本郷元町宅にて六十六歳で没。
作風は、師同様に互の目乱れを主体とした覇気溢れるものが多く、その技量は清麿門下中卓抜したものがあり、師に迫る名品を数々生み出しています。
彫りの名人としても有名で、越前記内、本荘義胤などに範を取り、それを独自展開した斬新な作が多く見られ、月山貞一、本荘義胤と共に、幕末の『三大名人』と呼ばれます。
銘振りの変遷として、最初期は『信秀』、嘉永七年二月から文久二年八月までは、『栗原謙司信秀』、文久三年正月から元治二年二月までは、『信秀』、『平信秀』、慶応元年に『筑前守』を受領した後、同四年六月までは、『筑前守信秀』が主で、稀に『栗原筑前守平信秀』銘もあります。明治元年からは、『栗原筑前守平朝臣信秀』なども加わります。
本作は、寸法六寸三分の片切り刃短刀、年紀はありませんが、『筑前守』を冠していること、『守』の字体などからして、『筑前守』を受領して間もない慶応元年の作と鑑せられます。
同工には平身の短刀、脇差しは比較的多く残されていますが、片切り刃は珍しいです。
互の目乱れを主体とした刃は、刃縁良く沸付いて匂い深く明るく冴え、刃中金筋、砂流し掛かるなど、師伝を良く継承した覇気のある出来映えを示しています。
藤代義雄先生の『刀剣図録』所載品で、白鞘には、『藤代義雄遺愛』と記されています。
付属の合口拵えと共に、専用木箱に収められています。