脇差し 洛陽一条住藤原国廣
(らくよういちじょうじゅうふじわらのくにひろ)
慶長癸丑十一月日(慶長十八年)(一六一三)
Wakizashi:Rakuyo Ichijoju Fujiwarano Kunihiro
新刀・山城 江戸初期 最上作
第十五回重要刀剣指定品(昭和四十二年)(一九六七)
『国廣大鑑』及び『新刀大鑑』並びに『日本刀の彫物』所載品
探山先生鞘書き有り
刃長:37.6(一尺二寸四分) 反り:0.6 元幅:3.17 元重ね:0.58 穴2
最上時代拵え(江戸後期 全長56.2 鞘 五分刻みに金蒔絵塗鞘 梅鉢紋図 こじり、縁赤銅魚子地に金塗、無文図 栗型、返り角は赤銅高彫金色絵、獅子図 小柄笄、赤銅石目に金象嵌地、据文象嵌金象嵌、小柄に四疋、笄に二疋の獅子図 裏は片削ぎ赤銅と銀の象嵌 小刀、長州二王方清作 下げ緒、萌黄色の貝の口組 柄 出し親鮫に焦げ茶塗 鯉口、縁頭、金漆塗、唐草図 目貫、赤銅容彫金色絵、大ぶりな獅子図)付き。
【コメント】
新刀最上作、堀川国広の重要刀剣、勇壮な慶長新刀姿、典型且つ濃厚な彫り物と貴重な最終年紀入り、同工最晩年に於ける集大成の名品です。
国廣は、享禄四年(一五三一)、日向国中西部に位置する古屋(ふるや)の地、現在の宮崎県東諸県(ひがしもろかた)郡綾町入野(あやちょういりの)古屋生まれ、当時、日向国全域に四十八の支城を構え、最盛期を迎えていた日向伊東氏に仕え、鍛刀は父国昌に学びました。しかし天正五年(一五七七)、島津の侵攻によって主家が敗北すると、それに従って豊後に逃げ延びましたが、天正十年頃には古屋に戻ったとされます。その後は古屋を拠点とし、山伏として各地を流浪、美濃国岐阜、相模国小田原、上野国足利などでも鍛刀しました。天正十八年に『信濃守』を受領、慶長四年(一五九九)頃からは、京都一条堀川に定住、郷里から同族を呼び寄せるなどして一門を形成、門下からは、末弟とされる国安を始め、阿波守在吉、大隅掾正弘、廣実、出羽大掾国路、越後守国儔、平安城弘幸、山城守国清、和泉守国貞、河内守国助等々、名だたる名工が輩出されています。
堀川一門は、同時期の京の名門、三品一門や埋忠一門と覇を競いながら、新刀期最大派閥となり、その中で棟梁たる国廣は、『堀川物』と呼ばれる一つのジャンルを確立、新刀ながら重要文化財『山姥切国廣』を始め、重要文化財十口、重要美術品十二口を数える名匠です。
京堀川に定住する以前の作は、『日州古屋打ち』、『天正打ち』と呼ばれ、末相州や末関を狙った乱れ刃が多く、定住後は、『堀川打ち』、『慶長打ち』と呼ばれ、相州上工を狙った穏やかな刃調の作が多く見られます。彫り物も前期後期問わず、巧みな作がまま見られますが、短刀、脇差しに多く、不動明王、毘沙門天などの神仏像を始め、龍、大黒天、布袋、梵字、倶利伽羅の欄間透かしなども見られます。
年紀作に見る活躍期間は、天正四年二月から慶長十八年十一月までの約四十年間、慶長十九年四月、八十四歳で没したと云います。
銘振りは、前期は『日州古屋住国廣作』、『九州日向住国廣作』などが多く、諸国流浪時は、銘文に『山伏之時作之』などと添え、後期は『国廣』、『藤原国廣』、『信濃守国廣』、『洛陽一条住藤原国廣』等々、他にも多数あります。
本作は、昭和四十二年(一九六七)、第十五回の重要刀剣指定品、いわゆる『堀川(慶長)打ち』であり、貴重な『慶長十八年十一月日(一六一三)』の年紀は、前述したように、同工最終年紀に当たります。探山先生鞘書きにもあるように、この年紀は、本作以外には刀に一振りあるのみです。
寸法一尺二寸四分、身幅広い勇壮な造り込みは、典型的な慶長新刀スタイルの平脇差しです。
板目に杢目を交えてややザングリと肌立つ地鉄、湾れ調で、小互の目、互の目を交えた刃文は、刃縁やや沈み勝ちに締まり、刃中小足、葉入り、金筋、砂流しが掛かっています。
表は不動明王立像、裏は腰樋に添え樋を丸留めにして、鍬形を添えています。同工の彫り物としては、典型的な意匠であり、特にいわゆる火炎不動は見事、『国廣大鑑』、『新刀大鑑』、『日本刀の彫物』等々には、同工の代表作、彫り物の典型作として所載されています。
鞘書きには、『本作は、同工最終年紀の好資料、ザングリとしたる堀川肌に、得意の湾れ刃を悠々と焼くなど、落ち着きと貫禄に溢れており、同工老熟の技を示す優品也。』とあるように、脇差しに傑作の多い国廣ですが、本作も間違いなく同工の代表作となる名品です。昭和二十六年三月の古い登録証は、千葉県登録。
付属の外装も、江戸期の一級品、刀身に相応しい何ともお洒落な作、これを逃すと後悔します。自信を持って強くお薦めする国廣です。